ソコト建国史 随時更新!

ナイジェリア北部が分離独立した世界線を考察しています。植民地期から独立後の北ナイジェリアの歴史です。

南北ナイジェリアにおける政党一覧表 カリフ即位以前編

『西アフリカ学生同盟』

ヨルバ出身の法廷弁護士資格を持つラディポ・ソランケによって1925創設された、在英アフリカ系人留学生の政治団体。ソランケは前年に南部ナイジェリア人留学生団体『南部ナイジェリア進歩同盟』を結成しており、『西アフリカ学生同盟』はより広く英領西アフリカ全体の視野に立って、アフリカ全体の発展に貢献できるエリートの育成を目的としている。f:id:filon:20190314194748j:image

伝統的なヨルバの衣装を見に纏ったラディポ・ソランケ。

ゴールドコーストのクワメ・ンクルマ、ケニヤのジョモ・ケニヤッタ、南部ナイジェリアのンナムディ・アジキウェら卓越したアフリカ・ナショナリストを輩出し、マーカス・ガーヴィーやジョージ・パドモア、W・E・B・デュボイスといった大西洋の向こう側のアフリカ系人活動家とアフリカ人運動家の思想的交流のプラットホームとしての役目を担うなど、英語圏の汎アフリカ主義運動に多大な影響を与えた。

ヨルバの伝統的占い師の家系に生まれ、血の繋がらない者に預けよという託宣の結果宣教師に養育されたラディポ・ソランケは、ヨルバランドで初等・中等教育を受け、ヨルバランドの教員養成学校を卒業後、英領西アフリカのエリートが集うシエラレオネフリータウンにあるフーラ・ベイ・カレッジに入学する。フリータウンは元解放奴隷によって建設された街で、西アフリカのどの地域にもまして宣教ミッションによる学校教育が盛んな街でもあった。フーラ・ベイ・カレッジを優秀な成績で卒業したソランケは、この街で補助教員の職に就き、アフリカにおける教育の重要性を深く認識することとなる。

その後法学の勉強のために大英帝国の首都であるロンドンに留学したソランケは、英国人の差別意識とアフリカへの無理解、経済的苦境による孤立などを経験し、アフリカ人留学生のための互助団体を設立することを目指す。こうして1925年に結成された『西アフリカ学生同盟』は、

•アフリカ人としての誇りを取り戻すこと

•そのためにアフリカ人は、なんでも英国に頼らずにアフリカ人自身による自助の精神を培うこと

•教育を受けたアフリカ人と伝統的な首長は、新しい時代のアフリカの統一に向けて協力すること

•アフリカに必要なのは政治よりも教育の充実であること

•この目的を達成するための機関誌WASUを創刊すること

・アフリカ人留学生支援のための奨学金制度創設のために、アフリカ人首長などの支援を仰ぐ

といった目的のために行動する組織であった。

このように次世代を担うアフリカ人エリートの育成に尽力したソランケであったが、南部ナイジェリア人として、南北ナイジェリアの統一についてはどのような見解を持っていたのだろか。そもそもソランケがアフリカ人留学生を組織し始めた戦間期のアフリカ植民地は、ようやく現地人エリートが立法審議会現地人選出議員という形で自分の意見をアピールできるようになりはじめたという段階であり、植民地におけるアフリカ人のより幅広い自治は目指すべき目標とはなり得ても、近い将来に英国統治を抜け出して独立国となることは現在性に乏しいと考えられていた。それでも『西アフリカ学生同盟』は、1942年の段階で内政自治権の即時付与と、終戦後5年以内の完全自治政府の樹立を求める宣言書を植民地省に提出するなど、次世代の先鋭化したナショナリストが次第に主導権を握っていくのだが、基本的に初期のソランケは教育水準の向上に主眼を置いていた。

このような認識の元では、南北ナイジェリア植民地の統合は重要な問題とは認識されなかった。ソランケにとってはむしろ、いかにしてナイジェリア全土の教育水準を上げるかの方が優先順位が高かった。この文脈においては、北部ナイジェリアに学校教育を担う宣教ミッションの入域を認めず、また近代的世俗教育を広めることに恐ろしく悠長な北部ナイジェリア総督府の姿勢を「アフリカ人を永遠に薪を切り水を汲む存在に留めようとする悪辣な手法」と断じ、南部の教育あるものは速やかに南部ナイジェリア並みに教育を普及させるために北部のエリートと協力すべきだと機関誌WASU上に論文を掲載していた。

この「北部ナイジェリアは総督府によって教育水準の発展が意図的に阻害されている」というソランケの北部認識は、世俗教育を拒む北部ムスリム大衆の反感を実地で経験したことのないナイーブな物であったにもかかわらず、後進の南部ナイジェリアのエリートにもWASU を通じて継承されていった。一部例外として、北部に実際に住んだ事もありハウサ語も話せるイボのンナムディ・アジキウェによる楽観論を戒める論文もWASU上に掲載されてはいたが、この認識のギャップは独立に至るまで埋められる事は無かった。

『西アフリカ学生同盟』が、汎アフリカ主義をアフリカ人留学生に広めるにあたって果たした役割は大きいが、南北ナイジェリアの統合に果たした役割はさほど大きいとは言えない。ちなみに、英国留学時代のアフマド・ベロやアブバカル・バレワもWASUの定期購読者ではあったが、『西アフリカ学生同盟』をフェビアン社会主義の巣窟とみなし、正規会員にはならなかったようである。

 

『ナイジェリア国民会議派

イボ出身の汎アフリカ主義者ンナムディ・アジキウェと、初期南部ナイジェリア政界の重鎮ハーバート・マコーレーが組んで1944年に結成した政党。『西アフリカ学生同盟』で頭角を現したヨルバ出身の汎アフリカ主義者H.O.デイヴィスが結成した『ナイジェリア青年運動』により盛り上がった1930年代の学生運動家が加入して全国規模の組織に成長した。この時期のナイジェリア・ナショナリズムは、独立前後の部族間対立の時代とは異なり「諸部族の平和的団結と融和的色彩」に彩られていたと一般に評価され、南部ナイジェリア政界の大御所は皆、この時代に総督府に拘束され過ごした刑務所での、互いの部族的背景を乗り越えて形成された真の同胞愛に満たされた日々を誇りを込めて語るという。

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ハーバート・マコーレー。マコーレーは、南部ナイジェリア連邦総督ヒュー・クリフォードにより認められた立法評議会現地人選出議員の第一世代であり、ラゴスが南部ナイジェリア保護領の首都として急速に拡大しているにもかかわらず、遅々として進まない水道設備の設置を激しく批判したことで名を挙げた。ナイジェリア・ナショナリズムの父として評価されるが、北部への言及はごく僅かなものにとどまっている。

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ンナムディ・アジキウェ。イボ出身の親の都合で南北ナイジェリア各地を転々としながら育ったアジキウェは、マコーレーよりもかなり広い視野でナイジェリアの未来を見据えていた。イボ語はもちろんのこと、ハウサ語、ヨルバ語にも堪能で、北部で生活した経験のある南部の政治家として稀有な存在。アメリカの大学に留学し、現地の黒人の汎アフリカ主義に影響され、ゴールドコーストで新聞の編集長を務めるなど、ナイジェリアに限らない全てのアフリカ(系)人の解放を主張した。

政治以外ではスポーツ好きとしても有名で、独立後はサッカー、ボクシング、卓球の協会会長を務めた。南ナイジェリア全体で民主的選挙による政治家よりも、物理的圧力を持つ軍人の方が発言権が強くなった60年代後半になると、「身体能力の高さを活かして軍人を志した方が出世出来たのでは?」と囁かれるほどの肉体の壮健を誇った。

明確に南北ナイジェリア全土の即時内政独立を要求する汎部族政党を掲げ、南部ではかなり幅広い支持を集めたが、北部では基本的に移住したイボ以外で支持を集めることはなかった。イボが主体だと見なされる事も多いが、実際には南部ナイジェリアの非イボ出身者も少なくなく、ヨルバ出身のマコーレーとイボ出身のアジキウェのコンビによって、ナイジェリア・ナショナリズムは大いに盛り上がることとなる。

 

『ナイジェリア行動党』

ヨルバ出身の民族主義社会主義者であるオバフェミ・アウォロウォが、自身が活動していた『ナイジェリア青年運動』が1941年に部族間不和により瓦解したことを受け、次の活動基盤として組織したのがこの『ナイジェリア行動党』である。この政党は、既に英国留学中にヨルバの民族的団結を促すために結成していたエリートの組織である『エグベ・オモ・オドゥドゥワ(ヨルバ民族の伝説的始祖であるオドゥドゥワ子孫の会という意味)を、より大衆的基盤を持つ政党組織とするべく1951年に結成された。f:id:filon:20190314202123j:image

オバフェミ・アウォロウォは、同じヨルバ出身で先輩であるハーバート・マコーレーの事を篤く崇拝しており、若い頃は彼の発行する『ラゴス・デイリー・ニュース』を毎日欠かさず読んでいた。また、マコーレーの作った政党『ナイジェリア国民民主党』の青年党員として、抗税運動やストライキで先頭に立つなど、若手活動家として頭角をあらわしていた。

オバフェミ・アウォロウォは、総督府や本国植民地省に対してはナイジェリア・ナショナリストとして振る舞ったが、国内の政治家に向けては断固としてヨルバ・ナショナリストの顔を隠さなかった。ヨルバ出身の政治家として、ハーバート・マコーレーの掲げたナイジェリア・ナショナリズムには強く惹かれていたものの、ナイジェリアは民族・言語ごとに自立した、立法府、行政府を持つ州の集まる、連邦制国家として存在すべきであるというのが彼の政治的見解であった。アウォロウォの政治的立ち位置は、

「ナイジェリアとは、国ではない。それは、単なる地理的概念に過ぎない」

という彼の発言に端的に現れている。ただし、『ナイジェリア行動党』はヨルバ政党としての色彩が非常に強いものの、ヨルバが連邦各地の諸部族に対し何か卓越した地位にあることを宣言するような政党ではないので、連邦政府では他の部族政党と連立を組むことを前提としている。

つまり、州と連邦の力関係でいえば、連邦の州に対する優越を掲げるンナムディ・アジキウェ率いるイボ主体の『ナイジェリア国民会議派』と、州の連邦に対する権限の自立を掲げるオバフェミ・アウォロウォ率いるヨルバ主体の『ナイジェリア行動党』が、それぞれ他の少数部族の支持を求めて競い合うというのが、WW2以降独立の可能性が語られだしてからの南部ナイジェリア自治領の政治地図である。

他にも、『ナイジェリア行動党』と『ナイジェリア国民会議派』では様々な政治的スタンスの差が見られる。例えば、『ナイジェリア行動党』は南北統一を、ハウサによるナイジェリア支配につながるとして、州の権限に関する憲法への明記を求めていた。それに対し『ナイジェリア国民会議派』は、州の自治よりも南北統一を優先する傾向がある。

また、対英独立の時期に関しても意見が対立しており、『ナイジェリア行動党』はヨルバの民族的結束がまだ固まりきっていない、州のレベルでの自治を通じた経験の蓄積が先決だと主張しているのに対し、相対的に近代化が進んでいるイボ主体の『ナイジェリア国民会議派』は、早期の対英完全独立によるナイジェリア全土でのイボの優位を求めて活動していた。

ただ、こういった細かな政策的相違を意識していたのは一部の政治エリートのみであり、多くの大衆は民族的義務感により政党を支持していた。例えば、強く進歩主義社会主義に傾倒していたアウォロウォは、それまで総督府により部分的に存続が認められていた土着裁判所の全面的放棄と、より効率的で清廉な西洋式司法制度への全面的な以降を求めて活動していた。これは、アウォロウォを単なる部族主義的反動政治家と見なす見解が間違いである事を示している。アウォロウォはむしろ民族ごとの州を通じた自発的な社会の進歩を望んでいたと言える。独立に向けて南部ナイジェリア自治領の州が東西に分けられた時、部族ごとの自治州運動をサポートしたのは『ナイジェリア行動党』であったことも忘れてはならない。

 

『北部ナイジェリア国民連合』

ソコト・カリフ国の祖ウスマン・ダン・フォディオの孫にあたるアフマド・ベロのイニシアチブで結成された政党。伝統的なウラマーやアミールの団体『イスラム擁護同盟』と、総督府の世俗教育を受けた政治エリートや司法官僚の『北部保守党』が、北部ナイジェリア自治領の立法審議会開設に伴い保守合同して結成された。名前からわかるように、南部ナイジェリアで得票することを一切考慮に入れていない北部の地域政党であるが、北部各地のモスクや神学校のネットワークを経由して行われる選挙運動により、北部では圧倒的な得票率を誇る。f:id:filon:20190314203338j:image

左からアジキウェ、ベロ、アウォロウォのスリーショット。独立直後の相対的安定期には、このような和気あいあいとした雰囲気での会談も見られたのである。

北部ナイジェリアにおけるシャリーア法廷やアミールの存在といった諸特権の保持を目的とする。南部ナイジェリア政界からすれば、人口で勝る北部ナイジェリア自治領で圧倒的得票率を誇る『北部ナイジェリア国民連合』が、このような反動的要求を出すことはほとんど悪夢であり、亡命したあるヨルバ人作家ウォーレ・カヌェネンドゥワの

「ナイジェリアにおける地方自治の意味を、20世紀の輝かしい未来を歩くはずのアフリカの巨大国家の中に、7世紀の慣習と法が絶対的な意味を持つような州の存在を認める必要があると歪めた点で、北部ナイジェリア国民連合と“スルタン”アフマド・ベロはほとんど病的に罪深い」

という評価は、進歩的南部ナイジェリア知識人の率直な感想と言えるだろう。

もちろん、これはそのヨルバ人ジャーナリストが教育あるキリスト教徒であるから出てきた評価であり、北部ナイジェリアの有権者が、金曜礼拝ごとにモスクでさんざん聞かされることになる「北部ナイジェリア国民連合に投票しないものは、全能の神が預言者を通じて下された聖なる法を踏みにじる背教者として、来るべき最後の審判の後、その身は永遠の火獄で焼かれるだろう」というあからさまな選挙妨害に惑わされ、理性的な判断を下せないという構造的な非民主主義的精神風土を割り引いたとしても、『北部ナイジェリア国民連合』は間違いなく有権者に支持されていたと言える。ムスリムである北部ナイジェリアの有権者にとって、「豚喰らいの汚らわしい異教徒どもが定める法が、全能の神の聖なる法よりも上位に立つ」などという事態を喜びのうちに迎えることなどあり得なかったのだから。