ソコト建国史 随時更新!

ナイジェリア北部が分離独立した世界線を考察しています。植民地期から独立後の北ナイジェリアの歴史です。

ソコトの社会システムについて

ソコト政府がまだ北ナイジェリア連邦として英連邦王国の一独立国家であった頃、北ナイジェリア連邦国内の諸制度は、一応外面的には西洋的な世俗主義体制の元運用されていた。首相として北ナイジェリア政府を統治していたアフマド・ベロは、ソコト・カリフ国の復興という悲願を達成するための重要な一段階として、北ナイジェリア植民地総督府が廃止されるや否や、体制のイスラム化を少しずつ確実に成し遂げていった。

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独立式典の2前日に行われた歓迎式典での、アミール達によるデモンストレーション。昔ながらの合戦を模したもので、その迫力あるパフォーマンスは、彼らが遊牧民であるフルベのジハード戦士の末裔であることを物語っている。

まずは独立国としての立ち位置をはっきりさせるため、北ナイジェリア連邦を英連邦王国から共和制へと転換した。これにより、異教徒である英国王に替わって新設された大統領職が国家元首とされ、ムスタファ・シェカウという高齢の元アミールをここに据えた。彼は政治的なスタンスも特にない総督府好みの典型的な『良い』アミールであったが、ともかく名目上は、体操と乗馬、それに小鳥を飼う事が趣味の、人畜無害な元アミールが国家元首となった。

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ムスタファ・シェカウ。北部ナイジェリア総督府アミール統括官のアーノルド・バーキンは、「どう見てもアミールではなくスーフィー、それも極めて徳の高いファキールになるのがふさわしいと思われるが、遠回しにそう彼に話しても「インシャラー(神の御心のままに)」としか答えない。」と評し、総督府の仲間内では『黒い聖フランシスコ』と呼ばれていると語っている。昔ながらのアミールらしく、傍らには常に美少年を侍らせ、時に美少年への愛を詩で表現するなど、独特の感性を持つとされる。南ナイジェリアにビアフラ戦争の危機が迫る1967年初頭、膵臓がんで亡くなった。

次に、国家司法の正式なシャリーア移行を促すために、連邦政府の司法審議会委員長にメッカ巡礼を通じて意気投合した腹心のアブバカル・グミを任じた。各アミールの元で運用されていたシャリーア法廷を国家レベルで公認した上で、北ナイジェリア全域にシャリーア法廷を行き渡らせるために、独立に伴って非ムスリム用に設置される事になっていた世俗法裁判所をシャリーア化する作業を担わせた。

この動きを受け、北ナイジェリア国内の南部系のキリスト教徒達を代表する『ナイジェリア統一党』は強く反発した。独立に際し北部ナイジェリア総督府自治領政府の間で取り交わされた協定では、北ナイジェリア政府は国内の諸宗教コミュニティを公平に処遇し、一コミュニティのみを代表とする政府であってはならないと定められていた。これに対する北ナイジェリア政府答弁では、非キリスト教徒の宗教的実践を阻害する意図はない事、新たに少数コミュニティ担当大臣を創設して諸宗教の平等を保障すると説明したが、あくまで個人的見解と前置きした上で、一部の南部系住民の選挙権について疑問を呈する見方を示し、さらに南ナイジェリア政府のコントロール下にある一部政党が北ナイジェリアの健全な民主主義を破壊することは受け入れられないとして、南部との更なる連合を求めるナイジェリア統一党を強く牽制した。

司法分野が着々とイスラム化されていく中で、南北ナイジェリアの統合組織であるナイジェリア国家連合も、北部にとって都合のいい形での形骸化が進められた。この国家連合は独立の段階で、南北代表が交互に国家連合を代表する輪番制という南部の意見ではなく、国家連合代表は人口に応じて選出される選挙人団により選出されなければならない、というアフマド・ベロの意見が通った。こうして、アフマド・ベロの盟友であるアブバカル・バレワが代表を務める組織となっていた。

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ナイジェリア国家連合代表として、北ナイジェリア連邦の独立式典に出席するアブバカル・バレワ。この後、女王に随行して南ナイジェリア連邦の独立式典にも参加した。女王が溌剌とした様子で式典に参加していたのに対し、連日の南北交渉で休みの無かったバレワは、疲労の蓄積でかなり参っていたという。南ナイジェリア連邦の独立式典における女王の感動的なスピーチも、彼はうっかり聞き逃してしまった。

彼はアフマド・ベロと同様に、北部では珍しく世俗教育を受け英国に留学に行った経験のある人物で、シャリーア無き北部ナイジェリアなどあり得ないという見解では一致していた。どちらかというとアフマド・ベロよりは南北統合に理解があったが(というより南部の税収は北部に不可欠だと考えていた)、南北が揉める点では悉く北寄りの姿勢を見せたことで南部から轟々たる非難を招いていた。特に北部の各種インフラ整備のために南部の税収を用いるという、南北統合インフラ整備五カ年計画を南ナイジェリア連邦議会に提案した際、オバフェミ・アウォロウォら地域ナショナリストらが国家連合の解消を求めて議場を退席する一幕もあった。結局は英国の援助取り消しも匂わせた和解の説得により事なきを得たが、どこまでもちぐはぐなナイジェリア国家連合の姿勢を露呈した形となった。

独立時の基本的な制度設計としては、南北が共同の外交主権を有するナイジェリア国家連合には南北対等の権限が与えられたはずだったが、南北の権限分割交渉が徹底される前に独立に踏み切ったという点が全ての問題の発端となった。この点で、ナイジェリア国家連合とタンガーニカ・ザンジバル連合の比較はすこぶる示唆的である。ナイジェリア国家連合が別々の英国植民地の国家連合であったのに対し、タンザニア連合は独立後に元英国植民地がそれぞれ国家権限を共有するという形で自発的に連合共和国に加盟した。タンザニア連合共和国は外交、国防、通貨以外ではタンガーニカとザンジバルそれぞれに自治権が認められており、その権限が重複することはない。

一方で南北ナイジェリア政府は、ナイジェリア国家連合のあらゆる権限をどう分割するかで絶えずもめていた。外交権と軍の指揮権という国家の基本的権限の共有でさえ、南北の総意の下の意見の一致とは言い難かった。その結果、折から問題となっていたカタンガ共和国の独立を巡り、南部選出の外交代表アモス・オディアのカサブランカ・グループ寄りの外交と、アブバカル・バレワのモンロビア・グループよりの外交が対立、結局アモス・オディアが辞職しナイジェリア国家連合の外交部門は機能不全に陥った。

 

このナイジェリア国家連合の機能不全は、そのまま南北ナイジェリア政府双方の自立に繋がっていった。既にアフマド・ベロの意を受けた非公式の外交特使が中東をはじめとしたイスラム圏の各国に派遣されており、特にワッハーブ主義を積極的に海外に宣教したいサウジ政府はこれを歓迎していた。これら外交特使の派遣を通じて国家承認を得られると判断した北ナイジェリア政府は、民族間のパワーバランスが崩壊しビアフラ危機に陥った南ナイジェリア政府が介入してこないと判断した1967年、完全主権国家宣言を発表した。これを受け、サウジをはじめとした中東諸国やアフリカを除く第三世界の各国で、少ないながらも外交関係を樹立することに成功した。

南北ナイジェリア関係に一定の区切りを付け、内政に専念できると判断したアフマド・ベロは、いよいよ本腰を入れて国内の制度改革に乗り出した。戒厳令により議会を解散していたアフマド・ベロは、完全独立国家宣言の発表と同時に、北ナイジェリア連邦からソコトイスラム国への国号変更も発表した。また、カリフの即位をもってソコト・カリフ国と名乗る予定であることも公表した。このソコト・カリフ国は、コーランハディースに記された預言者のスンナを国家の統合理念とすることを宣言しており、ソコト・カリフ国は人定法による統治ではなく、全能の神から預言者を通じてもたらされた聖なる神法によって統治されるべきであるとして、推戴されたカリフには神から付託された大幅な権限が付与されることになっていた。f:id:filon:20190314191412j:image

ソコト・カリフ国」への国号変更宣言をラジオ局で行ったアフマド・ベロは、そのままかつて北ナイジェリア連邦の独立式典が行われた会場に赴き、カリフ即位式に出席した。沿道には続々と支持者が詰めかけ、会場には50万人もの観衆が詰めかけたという。写真はラジオ局から出てすぐの所を収めたもので、撮影した英国人ジャーナリストによると、この十分後には視界が白いターバンと黒い顔以外何も見えないほどの人だかりになったという。

 

このカリフが招集する御前会議を主宰するのが、宰相(ワズィール)に就任したアフマド・ベロである。彼の他には、司法長官として国内のシャリーア法廷と非ムスリム用の法廷を所管するアブバカル・グミ、国家教育委員会委員長として教育機関イスラム化を担うユースフ・アリ、外務大臣としてソコト外交を担うアブバカル・バレワ、アミール協議会理事として国内の各アミールの監督と助言を担うヤークブ・ハウサーウィー、国防大臣としてソコト軍を指揮するムルタラ・ムハンマド将軍、内務大臣として治安維持とモスクの監督、自治体の監視などを担うマスウード・イスハーク、財務大臣として政府の予算や税関、通貨、租税、ワクフ財の監督を行うマフムード・ウスマン、旧北ナイジェリア連邦議会一院制の諮問機関として再編してできた立法機関であるカリフ諮問評議会を議長として取り仕切るウマル・ジェガ、農業委員会委員長として農務全般を取り仕切るイブラヒム・ラービウ、経済企画庁長官としてソコト経済を担当するスレイマン・ダンダータなどが必要に応じて招集され、カリフを共同で輔弼することになっている。

これらの組織は一致団結してソコト・カリフ国を構成していたわけではないが、アフマド・ベロの強力なイニシアチブの下、それぞれの組織の利害を抱えたまま呉越同舟の形で発言していた。例えば、内務省の審議会として設置されたイスラム推進・宣教・社会善導審議会は、ウラマー養成のための教育機関への補助金の交付や、卒業後のカーディーとしての進路の安定拡大を目的としたロビイング活動の政府内での根拠地と言われる。

また、ソコト・カリフ国の指導的イデオロギーであるアフマド・ベロの「ウスマン主義」を、イスラム法学の批判に耐えうるように「ハラール化」して国内外のムスリムに宣伝する事も彼らの重要な任務である。その他、報道メディア部門に委員のウラマーを送り込むことでラジオや新聞の内容を検閲することも重要な任務である。このような公然とした思想検閲だけでなく、全国の私塾、モスク、神学校に網目のように張り巡らされた、神学生とウラマーの師弟関係のネットワークが、情報源の役割を果たしている。さらに従軍ウラマーは、政治将校として軍や治安機関に入り込み、クーデターや国外勢力の策動を未然に防ぐことを体制から期待されているが、だからといってウラマー達が常にアフマド・ベロの政策を支持している訳ではない。時には一部の反体制派が行動を起こす事もあり、その時は内務省警保局公安課の弾圧によって、大事には至らないのが大半である。

 

ソコト・カリフ国の防衛体制を語る上で外せないのが、ソコト民兵と「カリフ擁護隊」である。民兵組織は、地元のアミール府の元に設置されている民兵委員会の元に組織されており、地方行政の最小単位として活動している。ソコト市民は、ザカート税、ハラージュ税及び各種雑税の納付をこの民兵委員会を通じて行うこととなっており、アミールはソコト中央政府に、この税収を手数料を差し引いた上で納付することになっている。また、各地方に未だ存在するキリスト教徒を監視、威圧する事も民兵の職務である。

「カリフ擁護隊」は、ソコト・カリフ国の地方民兵から選抜された民兵の所属するカリフの親衛隊である。国防省所属のソコト軍、内務省所属のソコト治安警察をアフマド・ベロは本心から信頼しておらず、アフリカ諸国で頻発している実力機関によるクーデターを未然に防止するため、首都カドゥナの半径100km圏内にはソコト軍の有力な部隊は駐留していない。その代わり、このカリフ護持隊と民兵隊が、治安警察と協力して首都の治安維持任務に当たっている。ソコト・カリフ国は国民皆兵制を掲げており、ソコト軍に所属しない市民であっても、規律ある民兵としてカリフの統べるイスラムの家(ダール・アル=イスラム)を異教徒の属する戦争の家(ダール・アル=ハルブ)から守るために最大限努力すること(ジハード)が求められている。

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手前の銃を携行している元ソコト軍兵士から、後ろにいる市民達は銃の使用法や行進の仕方、無線機や車といった装備の使用法、撤退する際に敵に物資を渡さないための設備の破壊方法などを学ぶ。月に一度、在郷軍人による訓練が行われ、15歳以上の全てのムスリム男子は、この訓練を受けることで、民兵として行動できるようになるとされる。

 

ソコト・カリフ国に服属する事を表明したキリスト教徒市民は、年に1回服属の象徴として、人頭税であるジズヤを所在地の各アミール府に納付する事になっている。実際には、所在地ごとに教会の責任者がコミュニティを代表してアミール府に出頭し納付する事になっているので、一般のキリスト教徒はこの儀礼には関係ないのだが、特に用事がない限りは、自分達が従属民であることを認識するために、ジズヤ納付式に出席することを暗に求められる。民兵団はこのジズヤ納付儀礼の後、村内の各キリスト教徒の家庭を一軒ずつ周り、アミール府から交付されるジズヤ納付証明書の提示を求めるため、村中を練り歩くのが恒例行事となっている。

また、諸外国にキリスト教徒の人権を尊重しているという建前をアピールするため、カリフ諮問評議会には非ムスリム議席として約5議席程度が留保されている。この他、服属した啓典の民の権利の保護に責任を持つムスリム評議員5名をカリフに推薦する事も国家統治基本法により認められている。ただし、そもそも諮問評議会の議決にはカリフの統治権に掣肘を加える強制力はない。諮問評議会は、カリフが明確にコーランハディースに基づく預言者のスンナに悖る行動を取らない限り、あくまでカリフを諮詢する機関としての役割を果たすに過ぎないのであり、諮問評議会により可決された法案も、カリフにより任命されたウラマーによる審査を受け、そのイスラム的合法性が認定されて初めてカリフにより勅令として交付されることとなっている。

このようにキリスト教徒にとって不平等て過酷な統治がなされるソコト・カリフ国であるが、主権国家宣言前後の南部への大量の避難民を除けば、まとまった形でのソコトからのエクソダスは起こっていない。なぜなら、ビアフラ危機によって100万人規模の致命的飢餓に見舞われている東部州への亡命は、多くの場合死の危険に繋がり、また南ナイジェリア連邦政府による経済封鎖の元では安全な移動は難しかった。南ナイジェリア連邦軍は着の身着のままの避難民から掠奪する事で悪名高く、それに比べればまだソコトで何年か屈辱を耐え忍ぶ方がマシだと判断した者も多かった。

概して言えば、ソコトにおけるキリスト教徒の生活は最悪なレベルとは言えなかった。確かにジズヤ税の負担はムスリムのザカート税のそれと比べれば、幾分割増だと言って差し支えなかったが、ムスリム市民に課せられた民兵委員会での労働奉仕は、キリスト教徒には課されていない事を踏まえれば、今までの生活の全てを捨てて南部に戻るほど不公平というわけでもなかった。また、植民地期以来築き上げてきた商業上な地位も、有力者との個人的なコネクションの構築に成功すれば、大抵の場合はなんとか持ちこたえる事が可能であった。

特に、国からの公共事業受注を通じてソコト屈指の総合土木建設業者に成長した「コットー・グループ」は、創始者のイボ人ジョゼフ・コットーとアフマド・ベロの、植民地期以来の個人的な繋がりが独立後もものを言った好例である。キリスト教徒の家庭に生まれたジョゼフ・コットーは、WW2期の戦争特需に自身の経営するカノーのレンガ工場から行った輸出を振り出しに、北部産資材の輸出を通じて北部有数の資本家に成長していた。

総督府自治領の政治家とも幅広い関係を持ち、南北を股にかけて経済活動していたコットーは、南北ナイジェリアの経済的統一こそナイジェリアを安定に導くと強く信じていた。独立後の政治的混乱の中でも、北部におけるイボ人の権利を主張する政治家を金銭的に支援する一方、アフマド・ベロら北部連邦首脳の緊張緩和を求めて、南ナイジェリア連邦首相ンナムディ・アジキウェとの南北会談をセッティングするなど、南北ナイジェリアの衝突回避に最後まで奔走していた。

このコットーの努力は承知の通り結局功を奏さなかったが、ソコト・カリフ国時代になってもアフマド・ベロとの個人的交友関係は続いていた。政府の後ろ盾を得た「コットー・グループ」は、1965年の「カドゥナ暴動」で大きく損傷した国営カドゥナモスクに代わり、サウジの資金援助で1972年に首都カドゥナに建設された「カリフ・アブドゥラフマン・モスク」を、サウジの建設業者(サウジ・ビンラディン・グループ)とジョイントベンチャーで施工した事を皮切りに、カインジ・ダム、ジェバ・ダム建設といった国家プロジェクトにも参画するなど、ソコト屈指の総合ゼネコンとなっている。

このようなジョセフ・コットーとアフマド・ベロの個人的親密さは、時として原理主義的なウラマー達からのやっかみじみた非難を招くこともあったが、ジョセフ・コットーが事あるごとに行うイスラム教的な慈善活動(ラマダン明けのイード・アル=フィトルでの市民への炊き出しや、イード・アル=アドハーでのラム肉の配布、くじ引きによるメッカ巡礼の航空券プレゼントキャンペーンなど)のアピールにより、一般市民からはさほど問題とはみなされていない。なお「コットー・グループ」は南ナイジェリア連邦でも積極的に経済活動を行っており、経済活動を通じた南北の融和というジョセフ・コットーの理念は後退していない。