ソコト建国史 随時更新!

ナイジェリア北部が分離独立した世界線を考察しています。植民地期から独立後の北ナイジェリアの歴史です。

ソコトを巡る民族、言語問題など

ソコト・カリフ国の民族問題を紐解くためには、植民地期以前にまで歴史の針を巻き戻す必要がある。ウスマン・ダン・フォディオによるハウサ諸王国の征服は、一面では遊牧民フルベによる農耕民ハウサの支配という側面があった。しかし、フルベの聖戦により征服されたハウサの諸地域では、ウスマン・ダン・フォディオにより派遣されたフルベの太守が支配する諸都市の下に、在地の行政機構がそのまま残され、被征服民にはフルベ語やフルベの慣習が押し付けられることはなかった。

ウスマン・ダン・フォディオによるイスラム改革運動がこれらの諸地域に広められ、また地域間交易が保護されたことで、ソコト・カリフ国の一体化は後押しされることになった。その結果、ハウサ語はソコト・カリフ国の版図全域に広がり、支配者であるはずのフルベの間でも、日常的にハウサ語が用いられるようになるなど、フルベとハウサは相互に融合し合うことで、徐々に一つの民族となっていくこととなる。

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ナイジェリア全土のおおよその民族分布図。北部におけるハウサのボリュームが重厚であることがわかるが、カヌリやOther Northern Tribes も無視できない存在感を有している。

フレデリック・ルガード卿による北部ナイジェリアの征服は、このソコト・カリフ国体制を破壊し、アミールの支配者としての地位は危ぶまれた。しかし、総督府の権威を認めるアミール達を間接統治の道具として認めるルガード卿の統治の下、植民地以前の社会制度は温存され、むしろソコト・カリフ国の版図を超えた北部ナイジェリア全体が一つの統治下に置かれたことで、イスラム法による裁判などイスラム教の多くのシステムはむしろ植民地期に北ナイジェリアに広く浸透することとなった。北部ナイジェリア各地の政治エリート達が通ったカツィナ・カレッジでは、英語と並んでハウサ語が教授され、北部ナイジェリアにおいてはハウサ語は非ハウサにとっても一種の共通語の役割を果たすこととなった。

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ハウサ語の分布図。北部ナイジェリアと隣国ニジェールに広く分布していること、ムスリムの間ではコートジボワールまでハウサ語ベルト地帯が形成されていることがわかる。

 

こうした民族模様は独立後もさして変わらなかったが、復活したソコト・カリフ国のイデオロギーは、ハウサナショナリズムとどの程度親和性を持っていたのだろうか。そもそもソコト・カリフ国がフルベ主体の帝国であったことも大きいが、国家的理論家であるアブバカル・グミの提示する再解釈されたウスマン・ダン・フォディオの「ウスマン主義」によると、たとえ同じハウサ語を話していても、預言者の聖なるスンナに服さないムスリムなどはよくて半カーフィル、悪くて背教者、呪物崇拝者と見なすのが普通であり、間違っても同胞と見なすことはなかった。ただし、ソコト・カリフ国の旧版図とハウサ語優勢地域は重なる事も多く、特に隣国ニジェールがハウサを抑圧する政策に出た時、ハウサ・ゲリラを援護しようと言う動きがあるなど、一概にハウサナショナリズムと無縁とは言えない。

たしかにソコト・カリフ国はその基本が民族主義国家ではなくイデオロギー国家であり、ソコト・カリフ国が国外に頒布するハウサ語の文献や、ハウサ語で流されるラジオにより覚醒したイスラム主義者が周辺国の社会主義政権により迫害を受けた時には、ソコト政府は基本的に暖かく迎え入れている。だが、特にイスラム的傾向のない世俗的な国外のムスリムに対しては、ほぼ毎日ラジオを通じて罵詈雑言を浴びせかけるのが常であり、ソコト政府が孤立することにも繋がった。

 

ソコト・カリフ国内部には、南部ナイジェリアほどではないにしても複数の部族と呼びうる集団が存在している。彼らの権利要求に対して、ソコト政府はどうやって対応したのかを、言語政策を通じて見て見よう。

まずソコト・カリフ国の公用語は、イスラム教が国教である事から、第1にアラビア語であった。ただしアラビア語を不足なく用いることができる者がそれほど存在しないことからもわかるように、この措置はむしろ、どの民族にも偏らないニュートラルなアラビア語の性質、そしてウスマン・ダン・フォディオ以来のイスラム教を国家理念に掲げるソコト・カリフ国の姿勢を強調する意味がある。ソコト・カリフ国のカリフ即位宣言書、事実上の憲法である国家統治基本法をはじめとする各種法文書及び官報、裁判の判決文、国の標語、国営ラジオ、軍の号令や部隊の名称(各民兵隊は、全国28の部隊に分けられ、それぞれアラビア文字を一つずつ割り振られ、そのアラビア文字から始まる勇ましい単語が、部隊の名称とされた)など、アラビア語が用いられる分野は多く、対外的にソコト・カリフ国がイスラム教を国家理念としていることを誇示する目的を果たしている。

アラビア語ソコト・カリフ国の国民が多く就学する地元のコーラン学校や、公立の教育機関で正課として教えられており、またサウジアラビアをはじめとする中東諸国からの資金援助や教員派遣を受けたエリート校では、ネイティブスピーカーによるアラビア語を教授言語とした、中高一貫教育を受けることが出来る。またこれとは別に、熱意ある一般市民にアラビア語の知識を授ける事を目的として、モスクに併設されたイスラム教育センターでは、夜間学校公開講座などを設けることで、柔軟なアラビア語教育を受けることができる。

 

ソコト・カリフ国の共通語として最も重要な言語は、間違いなくハウサ語である。ソコト・カリフ国の国民にとって、ハウサ語は母語であるか、あるいは民族間交際語の役割を果たしており、多くの国民がある程度のレベルまでは理解できるとされている。ハウサ語の書物は、アラビア語文献の訳書であるにせよそうでないにせよ、国営印刷所を通じて広く国内外に頒布されている。ハウサ語が国民統合に果たす役割は、単一民族により構成されていないにも関わらず、比較的国民統合の進んでいる、タンザニアにおけるスワヒリ語インドネシアにおけるインドネシア語に近いレベルにある。ハウサ語は、公立学校では多くの場合教授言語であり、ハウサ語がマイナーな地域にもハウサ語を広める役割を果たしている。

ただし、地方評議会(西洋における市議会や州議会にあたる)はハウサ語以外の言語にも対応するべきであるというカリフの勅令が下されており、ハウサ語話者ムスリムと非ハウサ語話者ムスリムの平等は国家統治基本法の前文でも謳われているが、これはそう明示せざるを得ないほどハウサ語が普及していることを暗に示している。また同様に、ハウサ語を教授言語とすべしという法令も存在しないため、カヌリ語やフラニ語など少数言語を教授言語として用いる学校もまた存在する。だが、ソコト国内でハウサ語を知らない者は、自らの故郷でしか生きられないという事実を知っており、我が子のソコト国内での栄達を願うなら、ハウサ語ではなくカヌリ語やフラニ語の学校は選択肢には入らなかったであろう。国内の言語間の平等の実現にソコト政府はさほど熱心ではないのだが、ハウサ語の圧倒的な存在感の前には、地方少数言語の権利運動がいまいち盛り上がりに欠けているのも事実である。

政府の公式文書はアラビア語が正文であるとされるが、これには別途、ハウサ語の訳文や注釈が常に添付されており、事実上こちらが公式文書として扱われている。ただし実務の上では、ハウサ語の文案が先に会議で揉まれて仮の文書として作成され、それをカリフの下す威厳あるアラビア語の正文に直して公布し、それに添付するハウサ語の訳文を再度アラビア語の正文と微調整した上で公布するという手順が取られる。

アラビア語で記された公文書の訳文に用いられるハウサ語は、アラビア語の訳文という性質上、一般的な口語ハウサ語とは異なり、アラビア語直訳体で記され、アラビア語独特の語順、語彙、表現がふんだんに用いられている。アラビア語の知識のないハウサ語話者にはとても読みづらいが、ある程度アラビア語教育を受けたハウサ語使用者は、元となったアラビア語を復元することが可能である。いわば、戦前の本邦における「普通文」のハウサ語版である。

なお、植民地時代にはラテン・アルファベットが用いられていたハウサ語は、ソコト・カリフ国として独立した段階で、表記言語をアラビア文字に変更されることとなっている。

 

国営ラジオの「ソコト中央通信」は、ハウサ語とアラビア語の二つのチャンネルで放送されている。預言者ムハンマドとその教友達の生涯を紹介する番組や、道徳的な逸話を集めた番組など、どちらも似たり寄ったりの内容で退屈だが、アラビア語のラジオでは、アラビア語の習得の為の番組やクルアーンアラビア語詩の読み上げなど、より実用的だという評判である。ちなみに、アラビア語習得の為の番組は、視聴者がハウサ語話者である事を前提としている。

また、礼拝と徳行を勧める番組は、ズフル礼拝(正午)とマグリブ礼拝(日没時)のタイミングに毎日放送されている。金曜日の金曜礼拝を励行するための番組は、特別に非ハウサ語でも放送されるが、全体的な傾向としてラジオにおけるハウサ語の優位は変わらない。ただし、国内の主要情報を解説する番組が流される時には、その地方での需要も勘案して、場合に応じてハウサ語以外でも放送される。なお、「ソコト中央通信」の国外向けチャンネルでは、フラニ語やアラビア語、英語、フランス語、ヨルバ語、イボ語などで「ウスマン主義」をアピールしている。

国内の新聞は、ハウサ語紙の「ソコト総合通信」、アラビア語紙「アル・イフリーキヤ」がある。どちらも政府から派遣されたウラマーによって内容が検閲されており、基本的には当たり障りの無いことしか報道しないが、政府の「ウスマン主義」の変遷を理解する上で有用な資料だと評される。どちらも英訳版が存在し、各大都市で購入することが可能である。

 

旧英国統治下にあったソコト・カリフ国にとって、英語は植民地残滓、異教徒の言語として否定的に捉えられている。南ナイジェリア連邦をはじめとしたアフリカ諸国の多くが、英語やフランス語などの宗主国の言語で行政手続きや公教育を行なっているのに対して、ソコト・カリフ国の行政手続きや公教育における英語の存在感は実に薄い。ソコト政府としても南ナイジェリア連邦など諸外国との日常的な事務手続きをこなすため、英語を高度に駆使できる人材の必要性は認識していたのだが、一般国民に英語教育を施すことの危険性を鑑み、高等教育で英語を第2言語として教えるにとどまっている。

総督府の設置したカツィナ・カレッジや北部ナイジェリア法学校では、文章英語に習熟した現地人エリートの養成が目指され、北部ナイジェリア植民地の行政言語は英語となったが、独立後のソコト政府では行政言語や法令のハウサ語への移行が急ピッチで進められた。実際には、総督府以来の南部出身の官僚の独立に伴う大量退職を補うために、総督府に勤務していた英国人官僚のほとんどを慰留したこともあり(行政府はかなりの人員が切迫していたため、現地人化の煽りを受け失職し、本国に帰国しようとした南部ナイジェリア総督府勤務の英国人官僚の新規採用も行った)、それほど徹底したソコト化を経たわけではなかったが、ともかく行政のソコト化というスローガンは掲げられることとなった。

エリート校では引き続き英語を教授言語とする学校もあったが、この種の学校はどちらかといえば実務系テクノクラートを養成する役割を担い、中東諸国、とりわけサウジとの結びつきの強いカドゥナ・アラビアン・カレッジのようなアラビア語系学校が本流のエリート子弟に人気があった。英語系学校も、英国人教員に替えてパキスタンやエジプト、インド、マレーシアからのムスリム教員を採用するなどのイスラム化を経て、体制に適応することで命脈を保った。またソコト軍の士官学校ソコト政府内では比較的英語教育を重視しており、サンドハーストへの留学も引き続き行われている。

この他、南ナイジェリア出身で独立後しばらく南に住んでいたが、南ナイジェリアの反イスラム暴動を避けるため、着の身着のままでソコト国内にたどり着いた「ムハージル」(ヒジュラしたもの)の集団は、ハウサ語よりもヨルバ語や英語を日常用いた者が多かった事もあり、政府の公文書の英訳は続けられた。

 

民族集団としてのムスリムは概ねソコト政府を支持していたが、植民地以来の南部ナイジェリアからの移民、特にイボのようなキリスト教徒との関係はソコト政府を悩ませ続けた。彼らは、上は総督府や商社に勤務する者から下は商店主や肉体労働者まで、教育程度の優位を背景に北部各地で確かな勢力を築いていた。その数は独立時点で既に100万を越すと見られたが、アフマド・ベロにより北ナイジェリア連邦が年々イスラム化されている事を苦々しく思い、南ナイジェリア連邦の連邦統合派へ反アフマドのロビー活動を積極的に進めていた。アフマド・ベロはこの動きに対して暴力的な脅迫を加えることで威圧する一方、総督府に勤務していた南部出身の官僚には形式的な改宗及びソコト政府への服従と引き換えに、それまでの職位の安堵を保証するなど硬軟織り交ぜた懐柔策を展開していた。この方策は最終的にはめぼしい成果をあげなかったが、北部在住の南部出身者は大いに動揺し、北部を離れ出身地やラゴス、ポートハーコートなどへ難民が大挙して押し寄せることとなった。f:id:filon:20190314184914j:image

着の身着のまま鉄道で脱北する難民達。その多くが、南ナイジェリア連邦軍とビアフラ共和国軍の双方から掠奪、殺人、強姦など凄惨な暴力に晒されることとなる。

この間、一致団結して北部の横暴を指弾すべき南部政界は、折からの州再編問題を巡り、『ナイジェリア行動党』とそれを支持する少数民族系政党による州権派への、連邦政府のどっちつかずな姿勢を批判する軍部のクーデター騒ぎで揺れに揺れていた。本来なら北部のイボ同胞の惨状を救うはずの『ナイジェリア国民会議派』のンナムディ・アジキウェ南ナイジェリア連邦首相は、直接北部に乗り込み問題解決のため直接会談したのだが、アフマド・ベロに「北部には北部を自治する天与の権限が存在する」とけんもほろろにあしらわれ、党内からの突き上げで一時下野する羽目になった。結局事態の緩和を求めるアフマド・ベロの内密の要請を受けた、ナイジェリア国家連合元首の(北部選出)アブバカル・バレワ代表による北ナイジェリア連邦軍の緊急出動により、暴動という最悪の事態は避けられたが、一方で北部で活動していたイボ・ナショナリストが見せしめ的に拘禁されるなど、もはやナイジェリア国家連合が北部におけるキリスト教徒を保護するために不偏不党の立場で行動する保証はないという南部政界の見方は揺るがないものとなった。

もしこの段階で南ナイジェリア連邦がビアフラ共和国との内戦の危機に突入していなければ、南部系人保護のための南ナイジェリア連邦軍の北部への出動からの内戦もあり得たが、そのような事態は回避された。ビアフラ戦争中、北部はフランスによるビアフラ共和国への支援を認めないという形で、南ナイジェリア連邦を公的にフォローはしていたが、一方でビアフラ共和国へ食料や資材などの大々的な密輸を認めたり(保護しているイボを人質にすることでかなり法外な値段をふっかけることに成功)、拘禁しているイボ有志による義勇兵のビアフラ共和国への出国を認めるなど、東西のバランスをとることで南ナイジェリア連邦政府に対し優位に立つことを考えていたようだ。特に、開戦劈頭のビアフラ共和国軍の快進撃に呼応するかのように、首都ラゴスに近い南部国境に北ナイジェリア連邦軍主力を配置することで、南ナイジェリア連邦軍を間接的に牽制したことは、南ナイジェリア連邦政府首脳に決定的な不信感を与え、戦後南ナイジェリア連邦政府における南北統合派の決定的退潮にも繋がった。

ビアフラ危機に際して、連邦首相が総督から引き継いだ総督大権に基づいて戒厳令を発令したアフマド・ベロは、この権限を効果的に用いることに成功した。彼に反発する世俗派、南北統一派、北部在住南部人ナショナリスト、反体制的イスラム過激派などへ呵責ない弾圧を加え、アフマド・ベロ率いるソコト政府への忠誠を誓う政治家以外のほとんどの政治家やその支持者が投獄か亡命を余儀なくされた。