ソコト建国史 随時更新!

ナイジェリア北部が分離独立した世界線を考察しています。植民地期から独立後の北ナイジェリアの歴史です。

独立後の初期北部ナイジェリア(ソコト・カリフ国)

「アフリカの年」である1960年、南部ナイジェリア自治領と北部ナイジェリア自治領は、それぞれナイジェリア国家連合(Commonwealth of Nigeria)に属する独立国として、南ナイジェリア連邦(Federation of South Nigeria)と北ナイジェリア連邦(Federation of North Nigeria)揃って共に大英帝国の軛を脱することとなった。ナイジェリア国家連合は、国際連合には南北共通の議席を通じて加盟しており、外交、鉄道、軍事など両国の共通の利害の元にある事柄は国家連合の所管となる一方で、司法、教育、地方自治など多くの分野がそれぞれの連邦で処理されるという点で、独立以前に激論が交わされた南北の対立は一応解決されるかに見えた。

しかしこの南北統合独立を、独立に当たっての一時的な過程とみなしさらなる権限の国家連合への移譲を求める南北統合派勢力と、南北はやはりそれぞれ独自の国家として独立すること、特に外交権は南北それぞれで所持することを求める勢力は事あるごとに対立した。特に、混迷を深めるコンゴ独立問題への対応、アルジェリア独立への支援、南アフリカの人種差別政策への対応、植民地を保持するために血みどろの弾圧を続けるポルトガルへの姿勢を巡って、ナイジェリア国家連合の外交路線は二分された。ガーナのクワメ・ンクルマ大統領の強いイニシアチブの元推し進められている汎アフリカ主義外交と反帝国主義、アフリカ社会主義路線を支持する、ギニアのセク・トゥーレ政権、マリのモディボ・ケイタ政権などのいわゆるカサブランカ・グループと、より穏健な姿勢と平和外交を目指し、旧宗主国とも協調路線を目指すセネガルのレオポルド・サンゴール政権、エチオピアハイレ・セラシエ政権などのモンロビア・グループのどちらに与するかは、初期ナイジェリア外交のメルクマールともいえるものだった。

f:id:filon:20190314223304j:image

国連に加盟した際のアブバカル・バレワによる最初の演説を写した写真。アフリカが激動の時代に突入した事を何一つ感じさせない、あまりに平凡すぎたその演説は、「恐るべき事なかれ主義」「彼の周りにだけ19世紀の風が吹いている」「バッファローのように語り、熊のように静かな男」「南アの虐げられた同胞に席を譲った方が遥かに有意義」と南ナイジェリア各紙で酷評された。

当時、北部出身の国家連合代表のアブバカル・バレワ大統領は、親西洋的な穏健外交を推し進める意向を示していた。この見解は、ナイジェリア国家連合の危うい連携を維持するためには過激な汎アフリカ主義やアフリカ社会主義といった要素をむやみにナイジェリア国家連合に持ち込むことは危険だという考えからなされたものだったが、北部出身の大統領はアフリカ諸国の政治的統合に否定的な保守主義者であるという見方がナイジェリア内外に広まるきっかけともなった。

そもそもナイジェリア国家連合は、異なる統治区分の元にあってバラバラにされたアフリカの諸植民地を、政治的結合によって克服することを目指す汎アフリカ主義的な運動として内外に喧伝されていたが、実際には南北ナイジェリア双方の政治的妥協の産物としての性格の方が強く、人口で勝る保守的な北部の政治家が外交方針を左右するという国家連合制度への南部の反発は高まっていった。

 

外交政策で国論が割れたナイジェリア国家連合であったが、内政にあっても多事多難であった。特に南ナイジェリア連邦では、独立以来西部州与党の地位にあったヨルバ主体の「ナイジェリア国民会議派」が、オバフェミ・アウォロウォ西部州首相の計画した地方自治制度改革を巡る内紛によって野党に転落し、西部州は一時的に臨時行政官が南ナイジェリア連邦政府から送られるなど混迷を極めていた。この動きの中で、石油資源などでナイジェリア随一の豊かさを誇りながらも、その恩恵を十分に還元されていないとかねてから不満を高めてきたイボ主体の東部州では、東部州は独立した国家として、南ナイジェリア連邦と対等の資格でナイジェリア国家連合に加盟する資格があるという分離主義路線が、特にイボ主体のナイジェリア進歩党で巻き起こった。この動きを察知した連邦政府は、全国的な州の細分化を通じて各州政府の弱体化を目論んだが、先手を打ったイボ人の高級軍人であるジョンソン・アグイイ=イロンシ将軍による1967年の「ビアフラ共和国」建国は、2年に渡って南ナイジェリア連邦を疲弊させることとなる内戦を引き起こした。

f:id:filon:20190309011513j:imageアフマド・ベロ首相

このような南ナイジェリア連邦の慢性的な混乱を尻目に、北部ナイジェリア連邦は国政レベルでは表面的には安定していた。ソコト・カリフ国の初代カリフであるウスマン・ダン・フォディオの孫にあたるアフマド・ベロが首相の北部ナイジェリア連邦では、基本的には植民地以前の制度がそのまま温存されていた。1955年に慌ただしく設置された自治領議会を引き継いだ連邦議会では、アフマド・ベロの率いる「北部ナイジェリア国民連合」による安定支配体制が築かれていた。この国民連合は、伝統教育を受けたウラマー達とソコト・カリフ国以来のアミール達による「イスラム保守党」と、世俗的な教育を受けた政治エリートと学校教育を受けた司法官僚による「進歩党」が、独立を前に保守合同を組んだものだった。アフマド・ベロ自身、ウスマン・ダン・フォディオの高貴な血筋を引くものという側面と、総督府による世俗教育を受け英国に地方自治制度の研究のため留学した世俗派という側面、総督府に長年勤務し自治領議会でもトップに君臨した北部ナイジェリア随一の政治家という側面があり、彼のイニシアチブにより北ナイジェリア連邦の政界はかなり平穏な状況となっていた。北部ナイジェリア連邦は南ナイジェリア連邦に比べ、ハウサ人の勢力が他部族に大きく卓越しており、ハウサ語が植民地統治下で汎民族的な広まりを見せ、また同じムスリムという精神的紐帯が存在するという点でも、南ナイジェリア連邦より国民統合が望めると考えられていた。そのためアフマド・ベロ首相は、比較的地方自治問題に悩まされずに、ナイジェリア国家連合を通じて有利な条件で南ナイジェリア連邦政府と交渉することができた。

北ナイジェリア連邦は、南ナイジェリア連邦で日に日に地方自治制度が機能不全となりつつある状況では、ナイジェリア国家連合に属することの政治的メリットなど無いに等しいのではという疑念を深めていたが、一方で南ナイジェリア連邦の税収は実に魅力的で捨てがたいという考えを抱いていた。そのため、例え南ナイジェリア連邦で国家連合の解消、特に外交の自立を求める声が高まっても国家連合の維持を求め続けたが、南ナイジェリア連邦が東西に分かれて内戦に及ぶにあたり、この混乱を北ナイジェリア連邦に及すことがないよう、「防疫線」と名付けられた国境の封鎖と、ナイジェリア国家連合政府からの職員及び南部ナイジェリアからの北ナイジェリア連邦軍の引き上げを行った。この事はナイジェリア国家連合の部分的機能不全と、南ナイジェリア連邦の独自外交に繋がったが、正式なナイジェリア国家連合の解消が宣言されることはなかった。ナイジェリア国家連合は今後一種の関税同盟として役割を果たすこととなり、共通の港湾施設管理などを目指す組織『ニジェール川流域機構』として再編されることとなった。

 

1967年、「ビアフラ共和国」を巡る内戦が激しさを増し、世界の耳目が「ビアフラ共和国」に注がれるそのさなか、北ナイジェリア連邦は独立国家として国家主権宣言を行った。南ナイジェリア連邦所属の軍の大部分が北ナイジェリア連邦領土から引き上げ、ビアフラ共和国軍鎮圧のため南下したことによる政治的空白をついた一種のクーデターであった。その際、北ナイジェリア連邦という国名が南ナイジェリア連邦との再統合を匂わせることを懸念し、「ソコトイスラム国」という国名を選択すること、一年以内にカリフを擁立することが発表され、サブサハライスラム教を国是とする独立国家が存在することを高らかに宣言した。国名に「イスラム」が入ったことは、世俗教育を受けた政治エリートにとってはやや不服であったが、アフマド・ベロの強力な指導力により国名の変更は進められた。

また「ソコト」の名が入ることは、ウスマン・ダン・フォディオの孫としての自負が滲み出ていた。事実、彼は”Uthmaniyya Movement” と呼ばれる旧ソコト・カリフ国時代の伝統に立ち返る運動を1960年代から始めており、ハウサ語のイスラム教諸文献の各種頒布、中東諸国への留学支援、モスクの建立支援、近代的マドラサの拡充などを通じて北ナイジェリア連邦のイスラム教振興を図っていた。この運動を支えるウラマーの団体である「イスラム護持協会」は、アフマド・ベロの支持基盤としての役割も果たしていた。

アフマド・ベロによる体制のイスラム化を支える存在として、アブバカル・グミの存在は忘れられない。彼は総督府シャリーア法廷に勤務する司法官僚の家に生まれ、優秀な成績で総督府の司法学校を卒業し、スーダンの司法学校で研鑽を積んでいたが、メッカに巡礼に赴いた先で外遊中だったアフマド・ベロと出会い意気投合、英語に比べてアラビア語に不安のあったアフマド・ベロの通訳として彼を支えた。スーダンでの学究の日々を終えて帰国したアブバカル・グミは、アフマド・ベロの右腕として国内に勢力を誇っていたスーフィー教団を「預言者の慣習(スンナ)からの逸脱(ビドア)」を起こす集団として激しく非難する論文を発表、国内の若手ウラマーや在家ムスリム有志を糾合した「Yan Izala」(ハウサ語でビドア排除とスンナ確立の結社)を設立し、国内にサラフィー主義の気風を持ち込むこととなった。f:id:filon:20190314230333j:image

サウジアラビアのファハド・ビン・アブドゥルアジーズ国王と面会する“シェイク”アブバカル・グミ。北部ナイジェリア自治領の最高判事である大カーディーの重職に就いており、自らの使命は未だ完全にイスラム化されきっていない北部ナイジェリアの法的イスラム化の促進だと確信している。伝統的なウラマーのように、支配者であるアフマド・ベロを善き方向に導くことが自分の役目と信じ、サウジとのコネクションなどを通じて彼をバックアップしている。

 

このような北部ナイジェリアのイスラム化は、1968年のカリフ擁立宣言で一つの頂点に至った。アフマド・ベロは、北部ナイジェリア自治領首相時代はあくまでも世俗的な伝統主義者としての役割を演じていたが、ユニオンジャックが降ろされるや否や、北部ナイジェリアが紛れも無いウンマの一部であることを証明するという聖なる使命につき動かされていた。最初は自身がカリフに登位することも考えたが、むしろ自身は宰相(ワズィール)としてカリフを輔弼した方が政策上の選択肢が広がると考え、ウスマン・ダン・フォディオのひ孫で自身の甥にあたるアブドゥラフマン・ベロをカリフに即位させることとした。

この措置は、ソコト・カリフ国の版図に入っていなかった地域ではそれほど好意的な反応は巻き起こらなかったが、ソコト・カリフ国の旧版図は熱狂的な興奮に包まれ、1968年の即位儀礼であるバイア(カリフへの服従の意思表示)式典では、北部ナイジェリア各地から集まったアミール達、ウラマースーフィーの導師といった伝統イスラム関係者、アフマド・ベロを始めとした議会及び政府関係者の一団を引見したソコト・カリフ国のカリフ、アブドゥラフマン・ベロは、カリフの聖なる大権の象徴にしてジハードの軍旗である白旗を彼らに授けることで、偉大なるソコト・カリフ国の伝統を現代に蘇らせることに成功した。