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ナイジェリア北部が分離独立した世界線を考察しています。植民地期から独立後の北ナイジェリアの歴史です。

南北”ナイジェリア”植民地の独立の過程

1940年代後半、WW2以降の大英帝国の凋落をまざまざと見せつけられたアフリカ各地の植民地では、一足先に独立へと動き出したアジア諸国に続けとばかりに、自治領化、あるいは独立を公然と求める声が上がり始めた。すでに1945年にロンドンで開かれた第五回汎アフリカ会議では、ガーナからクワメ・ンクルマ、ケニヤからジョモ・ケニヤッタなどといった大物アフリカ政治家が顔を揃え、アフリカの独立と統一を呼びかけるなど、アフリカに一層の自治とその延長線上の独立、そしてアフリカの統一を目指す動きが明るみとなっていた。この動きは遠からず南北ナイジェリアにも飛び火し、独立の二文字を南北ナイジェリアの政治家は意識することとなった。f:id:filon:20190314164344j:image第五回汎アフリカ会議での集合写真。『西アフリカ学生同盟』のメンバーも多数出席した。

 

ナイジェリアに限らずアフリカ諸地域の常として、他部族に跨る地域が一つの旗のもとに独立すべきか、あるいは部族ごとにまとまった形になってそれぞれ独立すべきかというのが、独立運動家の悩みの種であった。それに加えて南北ナイジェリア植民地は、南北ナイジェリアは果たして一つの国家として英国から独立すべきか、あるいは別々に独立すべきかを巡ってそれぞれの立場で意見が割れていた。

f:id:filon:20190314160532j:image南北ナイジェリアの主要民族分布図。

南部ナイジェリアのエリートの考えとしては、部族主義をある程度信奉する『ナイジェリア行動党』のオバフェミ・アウォロウォのような比較的部族主義の色彩の強い政治家といえど、ナイジェリア内部での独自性を保ったままでの独立が望ましいという考えが主流であったが(つまり、憲法に各コミュニティの権限や独自性を明記させるなどの州権の強い連邦主義)、それはあくまで独立南部ナイジェリア内部での話であり、北部ナイジェリアのように強い一体性を持った地域、それも植民地化以前の国制と独自の法体系を保持する地域との統合となれば、二の足を踏むのも当然であった。

そもそも、北部のエリートと個人的な交友関係にある南部のエリートは少なく、北部の現状をはっきり把握できていると認識している南部のエリートもまた少なかった。南部のエリート間では、例え部族や出身地を異にしていたとしても、同じ教育機関で学び同じ植民地議会で同じ問題について討論することもあったが、南部と北部のエリートの間ではこのような関係は稀であった。これは北部のエリートの側も同様であり、独立の可能性が公に語られ出したこの時期になってようやく、南北の政治家の個人的な関わりが持たれ出した。

 

南部と北部の主だった政治エリートがこれからの南北ナイジェリアの将来を語り合うために1955年に一堂に会した「アブジャ会議」は、南北ナイジェリアの統合の難しさ、南北ナイジェリアエリートの思惑の違いを双方に印象付けた会議となった。この会談はもともと、あくまでも南北両総督府と本国植民地省に対し、即時完全内政自治付与と独立を求める南北ナイジェリアの総意を示す為の象徴的な会議として開催されたものだが、会議の場で交わされた各種の議論は、南部と北部のあまりに大きな隔たりを改めて白日の下に晒した。

 

まず、北部と南部の大きな懸案であった法制度の対立を巡って、いきなり激しい論戦となった。穏健な社会主義を信奉するオバフェミ・アウォロウォに近い南部の政治家からは、北部が刑法の分野でも独自法を持ったまま、南部と同じ国家を形成することは果たして望ましいのか、南北共通の最高裁を始めとした西洋的法体系の導入を目指すべきではという意見が挙げられた。

また、独立後も北部に存在し続けるであろう南部からの移住者、特に多数が北部で活躍していたイボの利益を擁護したい『ナイジェリア国民会議派』のンナムディ・アジキウェからは、全てのナイジェリア人の法的権利と平等を擁護するための、南北ナイジェリア双方に跨がって存在する、強い連邦政府の存在は必要不可欠であるという意見がなされた。

それに対して北部からは、そもそもムスリムの共同体(ウンマ)は聖なる預言者の啓示に基づくシャリーアによって統治されているのが当たり前であり、植民地期以前からの尊い伝統を捨て去ることなどありえないこと、英国統治からの独立の暁には、北部ナイジェリアの更なるイスラム化をこそ望むのであり、独立して南部の異教徒のシステムを押し付けられるのなら何のための独立なのかわからないという意見が出た。

この意見は一部の過激なイスラム主義者の意見であり、アフマド・ベロの率いる『北部ナイジェリア国民連合』にも多様な意見が見られたし、『北部ナイジェリア国民連合』内部では穏健な世俗主義者の方が今回の会議に出席した北部のエリートでは主流だったのだが、もし総選挙を完全普通選挙で行った場合、このような苛烈なイスラム主義者が優位な選挙結果になるのでは、という北部の世俗的南北統合主義者の分析は、南北ナイジェリアの統合を考える上での大きな示唆を南部の政治エリートに与えた。

 

独立後のどの問題にもまして、北部ナイジェリアの法制度改革は南北ナイジェリア政界の結束を損なっていくのだが、そのほかにも大きな問題として選挙制度の是非や地方自治制度のあり方があげられた。南北ナイジェリアが合同の選挙区で人口通りに議席を配分した場合、人口で南部より優位に立つ北部が過半数議席を確保することになるが、南部のエリートの中からは議席を南北半数ずつ平等に配分することで南北のバランスを取る事を提案する声が上がった。また大統領や首相など重大な役職は南北で分け合うことなど、南北のどちらか一方が他方を制圧する事を(特に南部の)エリートが警戒していた事が伺える提言が多くなされた。

地方自治制度に関しては、特に北部に多数存在して今もなお権力を持っているアミール達の独立後の処遇について、南部の進歩主義陣営から権力を縮減していく方向で話がなされたのに対し、北部からの出席者はこれらの反伝統的、西洋的な考えを北部に押し付けるべきではないとして強く反発した。

他にも、地方自治の一種としての北部独自の教育制度に関して、北部にも南部と同じような世俗教育を大々的に整備する事を当然視する南部のエリートが、北部には北部独自の教育行政を敷く権限がある、そのような洗脳で我々の子供たちを改宗させるわけにはいかない、と声を荒らげるイスラム主義者の反発の予想以上の強さに騒然とする一幕もあった。

また、複数の部族を抱えるナイジェリアの地方自治のあり方として、現行の州制度を言語別の州へと再編するといった提言もなされ、独立後の南北ナイジェリアの国家運営の多難さが浮き彫りとなった会談であった。

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右から、北部ナイジェリア自治領首相アフマド・ベロ、南部ナイジェリア総督ウィリアム・ランフォリックス、南部ナイジェリア西部州首相オバフェミ・アウォロウォ、南部ナイジェリア自治領首相ンナムディ・アジキウェの集合写真。この会議を傍聴していたランフォリックス総督は、「ナイジェリアというものは、これまでもこれからも存在しない。いずれあのインドのように分裂するだろうが、その時起きるカオスを現有の部隊で果たしてどれだけ抑えられるか、考えるだけで陰鬱になる」と日記に書き残している。

 

この会談の内容を正確に把握した南北総督府は、一般大衆の独立運動への確かな支持とは裏腹に、南北双方の政治家達が、南北統一という魅力的ではあってもひどく政治的に消耗せざるを得ない選択肢を積極的に取る事は、大言壮語的にアフリカの政治的統一を語る一部の過激な汎アフリカ主義者以外はあり得ないと判断しだした。また近年採掘が活発になり始めた石油も含め、主だったナイジェリアの重要な資源が南部に集中している事を踏まえれば、もし仮に植民地秩序を維持し得ない場合、南部ナイジェリアに安定した現地人政府が存在し、積年の英国の投資をふいにしないのであれば、独立容認も最悪あり得るという本国植民地省の意向も届くようにもなっていた。もちろん、それは英国のアフリカにおけるプレゼンスを大きく損なう危険性がある以上最期の選択肢であったが、総督府も可能な限りナイジェリアに英国のプレゼンスを維持することを至上命令としていたので、浮き彫りとなった現地人エリートの食い違いを仲裁する事で影響力を及ぼすことにしていた。

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北部カノーで遊説するアフマド・ベロ。彼はよく、言語によって政治的アクセントを変えていると言われる事がある。南部の政治家と英語で話す時は、自分は穏健な世俗主義者であり、過激なイスラム主義者を制しきれるのは自分だけであるかのような口ぶりで話し、地元の同胞に支持を訴える時は、ハウサ語にクルアーンハディースの引用を交えながら、ウスマン・ダン・フォディオの孫として“臣民”に語りかけた。最も、彼は自分のアラビア語に自身が無かったため、懇意にしているウラマーがコピーライターとしてバックアップしたと言われる。

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『ナイジェリア行動党』の若いアジテーターによる演説会。党執行部が全ナイジェリア的な視野に立って論戦を戦わせている間、しばしば過激な民族主義者により、他部族への憎悪を剥き出しにした演説が末端の党地方支部で行われていた。どの党も党執行部は過激な部族主義を非難していたにもかかわらず、党の中堅、末端クラスはほとんどもれなくこのような憎悪に感染していたと南部ナイジェリア総督府は植民地省に報告している。

 

1957年、汎アフリカ主義者クワメ・ンクルマによりガーナが黒アフリカ諸国で最初に独立国家となった時、南北ナイジェリアの朝野は異様な熱気に包まれ、南北双方の政治家も遂に独立を実現の可能性のある出来事として受け止め、総督府も具体的な独立のスケジュールを策定する段階に入りつつあった。総督府はこの時点では南北ナイジェリアが別々に独立するという選択肢を考え始めていたが、それも含めて独立をどのような形で行うかについての選挙が必要だという認識を示していた。

南部ナイジェリア総督府はこの線で独立させることに異議は無かったが、北部ナイジェリア総督府は、独立後の北部ナイジェリアは速やかに財政難に陥ってしまうこと、北部の綿や落花生といった産物は鉄道を経由してラゴスやポートハーコートといった南部ナイジェリアの港によってしか輸出されないという北部ナイジェリアの経済的脆弱性が、南北の独立後の関係を歪なものとしてしまうことを危惧して、鉄道や港湾施設といった重要インフラは何らかの国家連合(仮称・ナイジェリア国家連合)の元で共同管理されるべきであると南部総督府及び南部自治領議会に申し入れた。

これは南部総督府の中でも内密に考えられていたことであり、また南北統合派も似たようなことを考えていたのであるが、この措置を巡って南北ナイジェリア双方の自治領議会で議論がなされ、南北ナイジェリアは独立と同時にナイジェリア国家連合に加盟し、共通の利害のあるインフラを共同管理することを目指すという方針が示された。これは南北の出資比率や権限の分割で折り合いが付かずに一時保留となったが、独立後にナイジェリア国家連合に加入してインフラを共同管理するというアイデアは南北でそれぞれ好意的に受け止められていた。

この国家連合案は、南北ナイジェリアの統合を主張する汎アフリカ主義者や南部の財源をあてにしたい北部の政治家と、人口で勝る北部による南部支配を恐れる南部の政治家双方が歩み寄れる選択肢としてかなり好意的に受け止められた。この国家連合にどれほどの権限を持たせるかに解釈の余地がありすぎるため、これを統一アフリカ共同体のモデルケースであると早合点した他国の汎アフリカ主義者もいたくらいだが、終わりの見えない交渉に疲れ果てた南北双方の政治家は、皆ほとんどこの国家連合案に飛びついた。

かくして、1960年、アフリカ大陸に吹き荒れた変革の風と共に、日の沈まない大英帝国がアフリカ大陸から立ち去ろうとしている中、南北ナイジェリア自治領は、ナイジェリア国家連合の加盟国として独立を果たした。南北それぞれの妥協の産物としてではあるが、ともかくユニオンジャックニジェール川流域から降ろされたのである。

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ダブルヘッダーで行われた南北ナイジェリアの独立式典の写真。南北ナイジェリアの同時独立を希望した両政府の要請により、1枚目の写真にあるように午前9時に北ナイジェリア国王としてカドゥナで独立式典に参列したエリザベス2世は、その足で空軍の飛行機に飛び乗り南下、夕方に3枚目の写真にあるように南ナイジェリア国王としてラゴスで独立式典に参列した。2枚目は、女王の前で恭しく腰を屈めるアフマド・ベロ、4枚目は式典の前に顔を合わせるンナムディ・アジキウェと女王である。スムーズに式典を始められるよう、飛行場の近くの空き地には、一週間前になって急遽臨時の式典会場が設営されていた。

かなりのハードスケジュールであるにもかかわらず、女王は何事もなく新国家の独立に立ち会い、君主としての役目を粛々とこなしていった。夕焼けがアフリカの大地を真っ赤に染める中、「日暮れて四方暗し」の伴奏に伴ってユニオンジャックが降ろされた後、

「かくも美しい夕映えの下、愛すべき我がナイジェリアの民に今日このような素晴らしい国をお与えになった、神のなんと偉大な事でしょう。今日というこの素晴らしい日からこの先ずっと、これほど素晴らしい夕焼けを我々に見せてくれたこのまばゆい太陽が、美しいナイジェリアの大地を幾世にも渡り照らし続け、愛しい我がナイジェリアの民を見守り続けてくれる事を心から願っています。神よナイジェリアを守り給え」

と祝辞を述べた。

これを直に聞いていた根っからの反植民地主義者である“臣下”の西部州首相のアウォロウォと、南ナイジェリア連邦首相のアジキウェは、「さすがは“我らの”女王陛下だ。素晴らしいナイジェリア・ナショナリストじゃないか。」と式典後嬉しそうに語り合い、出席していたガーナのクワメ・ンクルマ大統領も「女王陛下には敵わないな。私ももう少し情緒的な演説を練習する必要がありそうだよ。」と苦笑いを浮かべていたという。